HUNTER×HUNTER特集 第8弾 キメラアント編・後編 〜メルエムとコムギが織り成す、感動のラスト〜
【神アニメランキング虹見式】HUNTER×HUNTER特集「キメラアント編・後編」
ついにキメラアント編も最後になりました。キメラアント編のまとめと共に、メルエムとコムギの感動のラストを述べて参ります。
キメラアント編・中編のおさらい
ついに宮殿に突入した討伐隊。待ち受けるユピー、降り注ぐ「ドラゴンダイブ」、傷付くコムギ。
王と護衛軍を分断する作戦は成功し、王はネテロと共に移動する。
宮殿ではプフとモラウ、ユピーとシュート・ナックル、そして、ピトーとゴン・キルアが向かい合う。敵味方、様々な思惑が入り乱れ、戦いはさらに混沌としていく。
コムギを治療し終えたピトーとゴンはカイトの元に向かうも、カイトは既に死んでおり、治せるものではなかった。ゴンを「王にも届きうる牙」だと認識したピトーは、ゴンを始末しようとするが、ゴンは「ゴンさん化」し、ピトーを始末する。カイトの教えの通りに。
王とネテロの戦いは、武を極めたネテロを持ってしても、敵わない。いよいよ追い詰められたネテロは、最後に自身の念能力の極みを繰り出すも倒せず、「貧者の薔薇(ミニチュアローズ)」という小型核爆弾によって、メルエムもろとも自爆した。
ところが、プフとユピーの「無償の愛」という犠牲により、メルエムは復活。記憶が欠如した王を巡り、プフは撹乱するも、ウェルフィンの「コムギ?」という言葉によって、全てを思い出したメルエム。
そして物語はいよいよクライマックスを迎える。
中編のコラムはコチラ↓
神回すぎる135話
パームとメルエム
進化させた「円」によって、パームの居場所を突き止め、コムギに会いに来たメルエム。
「条件があるなら聞こう。」
と問う。続けて、
「人類の存亡を背負っての戦いならもう終わった。お主達の勝利だ、戦いは終わった。」
「ここに余が来た理由はただ一つ。コムギという人間に会いたい。それだけだ。」
蟻の王の敗北宣言だった。
パームは、王の死期が迫っているとわかってはおり、メルエムも残された時間を、ただコムギと過ごしたいと頼む。しかし、パームも簡単には引き渡せない。メルエムの言葉が真実だとしても 、応じるわけにはいかない。
「余にできるのは、ただひたすらに頼む他ない。それでもできないと言うのであれば・・・」
膝を着き頭を垂れようとした瞬間、パームは大声で止める。
「ダメ!私ももう半分は蟻。あなたが種にとってどれほどの存在かはわかってるつもり。そんなあなたに、そんなことをさせてはいけない!」
パームは、メルエムのその姿に、コムギを引き渡す決断をした。パームの能力で、メルエムを見届けることを条件に。
メルエムは、
「コムギに会うことが叶うなら、是非もないこと。」
と受け入れるのだった。
プフの最期
最も王に心酔し、理想に掲げていたプフは、自らが催眠にかけた群衆の横で、無残にも血を流して虫のように果てていた。
戦況をかき回し、蟻側の参謀として暗躍した、搦め手タイプと言えますが、もしプフに王への妄信とも言える忠義がなく、ジョーカーのようなタイプであれば、「スピリチュアルメッセージ」という能力によって、相手の心を読み、催眠をかけることで、天下を取れたかもしれないですね。キャラとしての魅力はあまり大きくはありませんが、役割としては、大きなものがありました。
コムギとの再会
布団に包まれ隠されていたコムギの元にメルエムがやってくる。
夢の中でも軍儀をしていたコムギは、「4-7-1帥」と寝言を言っているところを起こされる。
「起きろ、コムギ!打つぞ!」
心なしか、嬉しさを噛みしめるように言う。
つい数時間振りと言うのに、もう何日も打ってないかのような時間の流れの中、二人は軍儀を指す。
「以前、余の名聞いたな。余の名はメルエムだ。今後はメルエムと呼ぶが良い。」
「メルエム様・・・はっ!わたすの名前はコムギです!どうぞよろしくお願いいたします!」
「知っておる。いや・・・」
メルエムは知らなかった。何が大事なものなのか、何も知らなかったのだ。
「メルエム様?」
「様はいらん。」
「滅相もございません!総帥様を呼び捨てなど、絶対にできません!」
「ならば、軍議で余が勝ったら、様抜きで呼べ。」
「わかりますた。呼び捨ての後に死んだらいいですか?」
「死ぬ必要はない。以前の余とは一味違うぞ。幾多の敗北を覚悟しておけ。おぬしが勝ったら何がほしい?」
「うーーん、そうですねぇ~… もう一局お願い致します!」
(愚問か。)
ニヤリと微笑むメルエム。いよいよ最期の軍儀が始まる。
コムギの指す手は、死路であるはずの「弧孤狸固(ココリコ)」。舐められていると感じたメルエムは、「貴様、やはり余が勝ったら死ね!」と迫る。
ココリコの一手が打たれ、メルエムは指し返す。指先が光るコムギが指す。死路となったココリコを蘇らせたのは「忍」の一手だった。
「確かに、道が生きた!!」
その一手により、死路だった盤面は蘇った。さらにメルエムはここしかないという「逆新手の一手」を打つと、号泣しているコムギの姿があった。
「どうした?なぜ泣く?」
「わたすが、こんなに幸せでいいのでしょうか?わたすみたいな者に、こんなに素敵なことが、いくつも起きて、いいんでしょうか?」
「やはり、言わねばならぬな。余は、毒に侵され、長くない。最期、コムギ、おぬしと打って過ごしたかった。だが、この毒は伝染する。余の側に長くいればおぬしにも・・・」
言い終える前に、コムギは「逆新手返し」の一手を放つ。
「メルエム様、わたす、今、とっても幸せです!不束者ですが、お供させて下さい。」
涙を流し、嬉しそうなコムギの姿を見た王とコムギは、
「そうか、余は・・・」
「わたすは・・・きっと、この日の為に生まれてきますた。」
「・・・この瞬間の為に、生まれて来たのだ。」
帥の駒と忍の駒が寄り添い戯れるように回る。
コムギは、きっと初めて本気を出し、全力でぶつかれる相手が現れたのでしょう。子供が、親に全幅の信頼を預けて、全力で飛び込み、受け止められるような喜びを、コムギも感じたのでしょう。コムギにとってメルエムは、親にも似たような感情が湧き上がったのかもしれません。
最期の刻
暗闇の中、メルエムが放った蛍のような「円」の光が揺らめく中、2人は軍儀を続けていた。
軍儀を指しながら、
「コムギ、いるか?」
「はいな、いますとも!どこにも行きません。」
メルエムはもう目が見えない。なおも軍儀を続け、コムギの勝ち。
「コムギ、いるか?」
「はいはい、いますとも!さぁもう一局、負けた方からですよ。」
「コムギ、結局余はお前に一度も勝てなかったな。」
「何をおっしゃいますやら!勝負はこれからですよ!」
「そうだな・・・」
もう一局、メルエムから始まる。
「コムギ、いるか?」
「はいな!もちろん。メルエム様の番ですよ。」
何度も聞くメルエム。
「少しだけ、疲れた。ほんの少し、眠るから、このまま、手を、握っていてくれるか?」
苦しそうに言うメルエム。
「コムギ?コムギ、いるか?」
一瞬の沈黙。
「聞いてますとも。わかりますた。こうですね?」
「すぐ、起きるから。それまで、側にいてくれるか?」
「離れたことありませんよ?ずっと、一緒です。」
「コムギ」
「はいはい、なんですか?」
「ありがとう・・・」
「こちらこそ・・・」
「最後に、名前を呼んでくれないか?」
「おやすみなさい、メルエム。
わたすもすぐ、逝きますから・・・」
暗い部屋の中、血にまみれたメルエムは、コムギにその名を呼んでもらい、先に逝く。メルエムを抱えるコムギもまた、次第に毒に犯され血を流しながらも、聖女のように優しく微笑み見送るのだった。
あーもう何度見ても泣けてしまいます(T^T)
キメラアント編は、メルエムとコムギの軍儀の通りに進行していると言われています。「帥」の駒はメルエムを表しており、「忍」の駒はコムギを表している。
王を分断する作戦は、まさに「ココリコ」であり、それは死路のはずだった。メルエムの着想では、覚醒した状態でも、死路でした。最期に打ったコムギとの一局で、コムギが打ってきたのは「ココリコ」。分断された王は死路だったが、コムギは、メルエムにも思いつかない、死路だったはずの盤上に、無数の道ができます。
その一手は、「忍」の駒。「忍」とは、コムギの事を表しています。
つまり、コムギの存在が、死路である王に、生きる道を作った。それは、命を生かす道ではないかもしれないが、臣下を失い、自らの命も失って行く中で、コムギという存在が、メルエムの残された時間を輝くものに変えた。自分が生まれてきた意味、理由を感じたからだ。
メルエムとコムギは、薔薇の毒により死んでしまいますが、生きる意味を知って死ぬのと、知らずに死ぬのとでは、全く意味が変わってくるでしょう。自分が生まれて来たことに、納得し、生きたことに満足できたはずだからです。
メルエムとコムギの関係にあるもの
メルエムは、キメラアントの王であり、コムギは人間で、軍儀の世界チャンピオンです。
特にキメラアント編は、ゴンとメレオロン、キルアとイカルゴ、という風に、人間とキメラアントを対比して、描かれているように思います。
例えば、ゴンとメレオロンは、化物のような人間と人間のような化物を表現することで、人間の定義のようなものを描いていて、キルアとイカルゴは、本物の友情とは何か、ということを描いています。
では、王とコムギの関係は、何を描いているのでしょうか。
それは(種を超えた)「愛」です。
おそらく、冨樫作品の中に、「愛」という言葉はほとんど出てこないと思います。「愛してる」という言葉もまず出てきません。
王がコムギに対して抱く、言い知れぬ感情というのは、「愛そのもの」のように思います。
ゼノの「ドラゴンダイブ」によって、傷ついたコムギを見て、ピトーよりも、プフよりも、不気味で深淵な念が発せられたことも、傷ついたコムギを最大限いたわり、ネテロとゼノが見入ってしまう程、その慈愛に満ちた所作によって、コムギを大切に扱い、そっと寝かせて、ピトーに「コムギを治せ、頼んだぞ!」と治療を全託する。王の想いを知ったピトーは、無意識に溢れ出る涙を流しながら、自分の全てを賭けてでも王との約束を果たさねばと決意する。そこには紛れもなく、コムギに特別な想いを抱いている王の姿があります。
全生物を統治するかも知れない「王」と、目が見えず、簡単に死んでしまうようないたいけな存在であるコムギの関係は、「愛」という言葉では表しきれないのかもしれません。
それは種を超えた愛であり、ある意味、愛を超えた関係なのかもしれません。
王が抱くコムギへの思いはおそらく、唯一自分を受け止めてくれる存在であり、母性を感じた存在なのではないかと思うのです。蟻の王としては、女王蟻はあくまで自分を産むための存在でした。しかし、コムギと出合い、自身の奥に眠る人間性を引き出されたことで、コムギは、あまりに弱い存在で守りたくもあり、「軍儀」においては、一度も勝つことはなく、全力でぶつかれる相手だった。
コムギにとっても、初めてこんなに自分を認めてくれて、命よりも大切な「軍儀」を、思う存分指すことができ、さらなる高みへと導いてくれた。
きっと、コムギにとって、王と「軍儀」を指すことは、一番幸せな時間なのだと思います。そんな相手を、愛さない訳はありません。
蟻と人間、相容れないはずの関係だからこそ、二人の間に流れる「愛」は、より際立っているのでしょう。
キメラアント編の後日譚
討伐、その後
キメラアント討伐の舞台となったのはNGLと東ゴルトー共和国。NGLは、キメラアントの母体になったと言ってもいいほど被害を受けており、師団長や兵団長のほとんどは、NGLの構成員や、住人である。
NGLのトップのジャイロは、その信念(悪意)の強さからか、女王に従うことなく早々に別の地へと向かった。
王が生まれ、東ゴルトー共和国に場所を移し、総帥のディーゴは即殺され、ピトーの能力によって操られる。
その後、王が薔薇の毒によって死に、東ゴルトー共和国もNGLも廃国扱いとなり、住人は難民となった。
その裏で、本物の総帥ディーゴは、およそ30年に渡って隠居生活を送っていた。つまり、殺されたディーゴは影武者だったのだ。
自分の国が、キメラアントに荒され、五万人もの人が殺された。王宮も破壊され、廃国になったにも関わらず、一番の責任者は、それとは無関係で悠々と過ごしていたのだ。
国の黒幕とは、そういう存在なのでしょうね。人が生きるも死ぬも、国が興るも滅ぶも、所詮は「俗事」、そんな風に思っているのかもしれません。そんな神経でもなければ、何百万、何千万という人の上には立てないのかもしれませんね。まぁ、そんな人がトップなのは嫌ですけど・・・。
レイナとブロヴーダ
王の死を迎え、蟻は人類に降伏する。生き延びる蟻は、ジャイロを追って流星街に向かう者や、人間の 記憶を取り戻したことによって、人類と行動を共にするもの、その能力を活かし、貢献するものなどがいた。
その中で、故郷を目指した蟻がいた。喋れない蟻のレイナと、案内をしたザリガニ型のブロヴーダだった。
それは、最初に襲われた、コルト(クルト)達兄弟がいた村で、レイナが我が家に帰ると、姿は違えど、母はすぐに我が娘だと気付くのだった。それまで一切喋ることがなかったレイナは、「なんで、わかるの?」と話しかけた。「当然でしょ!お母さんだもの!」と、泣きながら抱きしめる。死の間際、兄のクルトが妹のレイナを守ろうとしたことを伝えて。死んだけど、生きていたことは、母にとってはこの上ないことだった。
レイナを送り届けたブロヴーダは、その場を立ち去ろうとするが、レイナは
「食べよ?一緒にご飯、食べよ?」と引き止める。
ブロヴーダは断ろうとすると、なぜか涙が止まらない・・・
「あれ?おかしいな、なんだよ、これ?・・・」
戸惑いながらも、レイナと一緒に村に帰るブロヴーダ。記憶はなくても、もしかしたらこの村で被害にあった人間だったのかもしれません。
このシーンはあまり背景を描いていないのに、なぜか涙がこみ上げてきてしまいます。不思議としか言いようがありませんが、キャラとしてHUNTER×HUNTERの世界の中に確実に存在しているからなのでしょう。
ゴンとキルア
このシリーズで、キルアはイルミの呪縛が解かれ、覚醒するものの、OPやEDでは、前を向き見上げるゴンに対して、キルアはずっとうつむく描写で描かれている。それは常に何かが胸につっかえているかのように。
カイトの仇であるピトーへの復讐は、ゴンの個人的なもの。ミッションとしてピトーを相手にする役割があったものの、いざ戦いにおいては、ゴン1人で戦わせる。その結果を受け止める覚悟がキルアにはありました。しかし、キルアの本音は、
「一緒に戦いたかった。」
代わりに、ナックルを助け、パームを人間に引き戻したキルアは、蟻討伐作戦において一番の功労者かもしれません。それでも、本人の一番望むことは叶わなかった訳です。
ゴンの異変を察知し、「神速(カンムル)」で駆けつけたものの、既に惨劇は終わっており、どうにもならなくなっていた。
ゴンは、ゴンさん化の反動により、生命維持装置なしには生きられない状態だった。その腕はシワシワで、生きているかわからないほど。蟻討伐で戦った仲間もゴンの元に集まり、容体を見守り、ゴンを救う算段を立てていた。キルアも当然側にいたが、キルアの胸のつかえは、まだ取れることなく、ゴン救出に向けて新たに動き出す。
絶対に本人から直接「謝らせる」為に・・・
キメラアント編が面白い理由
相変わらず敵役に魅力があるのは言うまでもありません。しかも、色んな動物タイプの蟻がいる為、キャラの幅がさらに広がりました。念能力も続々出てきます。
絶望を描いている
カイトが片腕とは言え、ピトーに呆気なくやられてしまったり、ネテロがピトーを見て、「ワシより強くね?」の発言や、ノヴがプフの圧倒的な念を感じたことによりみるみる白髪になり、救出のため、再び潜入した時にはハゲでしまったり、ナックルがユピーに「ハコワレ」を発動した時に感じたオーラの総量が、過去類を見ないほどケタ違いだったり、命がけでボロボロになりながら、シュートがユピーと戦えていた時間は僅か1分ほどだったり、ネテロでも歯が立たない上に、ネテロの自爆を受けて瀕死の復活から、護衛軍の「無償の愛」により復活を遂げ、更に強くなってしまった王など、「これ、どうやったら勝てるん?」という覆せないような絶望を描きました。
面白い作品に共通しているのは、「いかに絶望を描くか」という点です。
例えば『進撃の巨人』は、まさにその「絶望」を描いていると言えます。人類では太刀打ちできない「巨人」がいて、為す術なく殺されます。
その中から、知恵を駆使し、人類の進化によって立ち上がる者がいます。そして、さらなる絶望が待ち受けるも、それを乗り越えていく、というようなテッパンの流れがあります。
ドラゴンボールも、その繰り返しですね。ピッコロ大魔王が現れ、何とか倒し、サイヤ人が現れ、何とか倒し、フリーザが現れ、何とか倒し、という(笑)。より強い敵が現れ、絶望を振りまいていきます。だからこそ、「スーパーサイヤ人」という、二次元キャラの最高傑作が生まれたわけです。
キメラアント編も、もちろんその流れですが、特に描いているのは、絶望をより大きくしていく、という手法です。キメラアントという存在から、護衛軍、そして王と、絶望が更に大きくなっていきます。しかもそれは、最初から出てくることがわかっているのに、予想を超えてくる、という所がポイントです。
絶望を描くと言っても、やはり予想を超えるものでないと、視聴者(読者)は満足しません。「どーせ死ぬんでしょ?」レベルではもう物足りないのです。
どうせ死ぬにしても、如何に死ぬか、ということは重要です。王とネテロの対決は、まさにその集約と言えます。
その戦いの中でも、ネテロの右脚がもがれ、さらに左腕までもがれてしまい、さらには、究極の奥義である「零の咆哮」を放ち、全オーラを使い果たしヨレヨレになっても、王は無傷であったことは、絶望が最高潮に達した瞬間ですね。
ストーリー構成の妙
普通物語は、主人公目線で描かれます。しかし、HUNTER×HUNTERはヨークシンシティ編でもそうですが、敵役の目線でも描かれます。
なので、どんな敵がいて、どんな思惑があるのかが丸わかりなのです。そうすることによって、全体を把握させることと、絶望をわかりやすく明確にしているともいえます。
冨樫の描くキャラは、かなり作り込まれていて、主要キャラに至っては年表まで作られています(ワンピースの尾田先生も同じ)。
だからこそ、いい加減なキャラではなく、しっかり物語を担う役割をこなしています。それは、主役であろうが、敵役だろうが、完璧です。
HUNTER×HUNTERの主役はゴンではありますが、あくまでゴンに焦点を当てているだけで、もしかしたら本当の主人公はいないのかもしれません。実際、現在掲載中(というか休載がデフォルト)の「暗黒大陸編」では、ゴンは出てきていません(笑)
時に、主人公交代と言われることもありますが、現状はあからさまなほどクラピカがメインです。一時期はジンでした。
基本、物語は、主人公を描くものですが、おそらく冨樫の描く物語は、主人公を中心には描きますが、それ以上に、HUNTER×HUNTERという「世界観」を描いているように見えます。その中心にゴンを据えているだけで、冨樫にとっては必ずしもゴンじゃなくてもいいのだと思います。
なぜなら、全てのキャラに命を吹き込み、どのキャラも生きているからだと思います。まさに冨樫は神(創造主)のような存在なわけです。だからこそ、ゴンにこだわらずに、誰を主人公しても物語を描くことができるんだと思います。描かれていないだけで、冨樫の中には今ゴンがどこで何をしているか、すべて見えているはずです。
これは敵役にも言えることだと思いますが、だから冨樫が描くキャラは魅力があり、敵と言っても敵役に配置しているだけで、敵役の本人にとっては、自分が主人公として認識していると思うのです。
そのようなキャラクターの描き方ができるのは、そうそういないと思います。これに関しては冨樫はトップクラスでしょう。
まあ、そんなこと言っても、簡単にキャラを死なせてもいるんですけどね(笑)まさに生殺与奪権を持つ神(創造主)ですね。まぁ、生あるものは必ず死ぬものだし、「死」というものを特別に思ってないのかもしれませんね。自然の理というか。
そういう意味では、冨樫自身が「死」を超越しているのかもしれません。クロロではありませんが、「死への恐怖心」を克服しているのかもしれません。腰痛とゲームの誘惑は克服できないようですが・・・
名前というアイデンティティがテーマの一つ
キメラアント編で重要なテーマが「名前」です。
王がコムギの名を聞き、コムギから名前を聞かれた時、戸惑います。
そして、「余は何の為に生まれて来たのだ?」と疑問を抱くようになります。
王がコムギの名を口にした時、プフは「そのような者の名前を!」と案じています。
王対ネテロでも、あくまで対話で片付けようとした王に対し、ネテロは王の名前を引き合いに戦いました。
王の覚醒後、記憶の欠如があり、ウェルフィンの言った「コムギ?」と言う言葉によって、蟻対人類の戦いが終結することになりました。
王はその最期、コムギの名を呼び続け、コムギに名前を呼んでもらい、命の灯が消えました。
この「名前」というテーマは、実はキメラアント編の最初から問われています。
女王が健在の頃、話ができる兵隊蟻が、「名前」を付けさせてほしい、と申し出ます。「名前などを求めるとは、人間とは不思議なものよ」と女王は言っているが、なんとなしなシーンではあるものの、何故かとても印象深く残っています。
「名前」とは、人間である意義でもあり、「アイデンティティ」でもあると言えます。集合体とも言える蟻にとっては、「名前」など意味をなさないのです。
その女王も、遺伝子の中に人の部分が少しはあり、「名前」を付けてほしいと申し出ることに、些かの面白さも感じていました。それによって、王と護衛軍の3人は、女王自らが名付けた訳です。
歪んだ家庭から生まれる悪意
最初の舞台はNGL(ネオグリーンライフ)という、科学を拒否した自然のまま生きるという団体が統治する国です。しかしそれは表の顔で、裏の顔は、飲む麻薬「D.D」を密造し、売りさばくというものでした。そのトップであるジャイロは、NGLの王だった。
彼は、子供の頃父親と2人暮しだった。無口な父で、ジャイロがいてもいなくても何も変わらないようだった。ある日、ジャイロがいじめられている時、父と目があった。しかし、何事もなかったかのように、その場を去った。
父の教えは「人に迷惑をかけるな」だった。人とは「父」だった。自分は「人間」じゃなかった。ジャイロはそんな父を殺すのだった。
よく、「人様に迷惑をかけてはいけません」って親から叱られることがありますよね。それって、どこかこのジャイロの父親のように、都合がいい言葉のように感じなくはありません。もちろん、人様に迷惑はかけない方がいいですが、その裏には「自分が面倒な目に遭いたくないから」という思いが見え隠れします。ジャイロの父親はそれしかなかった訳ですが(笑)、この言葉を聞く時も、言う時も、気を付けたいものですね。言われる方は、裏心を見抜くものです。
そんな父に育てられた(厳密には育てられてはいないですが)ジャイロの目的は「世界に悪意をばらまくこと」それが「D.D」という麻薬に顕れているのだった。
NGLの表向きは、自然に生きる平和な国ですが、裏の顔は、ジャイロの悪意に染まった一部の権力者が禁止している科学を使い、私服を肥やしている、というものでした。NGLは一種の宗教が支配する国のようなものですね。
その裏の顔からか、キメラアントの持つ獰猛さに、悪意が混じり、より凶悪な存在になってしまったのでしょう。
それが故に我が強く、人間に近いキメラアントになったものと思われる。それがまた、メルエムが人間になった理由でもあるのでしょう。
役に与えられた「役割」
物語である以上、登場キャラは、役割を持っています。それは、作者のさじ加減ではありますが、一つのゴールに向けて、必要な役割を持ったキャラ(駒)がいるわけです。
わかりやすいキャラで言うと、「ウェルフィン」は、特別強いわけではなく、弱いわけでもないですが、ウェルフィンの「コムギ?」と言う言葉によって、全てが終わりました。ウェルフィンは、「Well Fin=終わらせる」という意味を名前に持ちます。
最初から冨樫の中では、ウェルフィンがキメラ編を終わらせるキーマンにしていた訳です。
ウェルフィンは単純に名前に意味を持たせましたが、それぞれのキャラが、それぞれの役割を全うしたことで、物語は完成しました。
他にも、ナックルとシュートなんかは、野球の球種の名前で、その名に合った動きを見せています。ナックルはブレ球と言われているように、空気抵抗によって変化していく様はその通りでしたし、シュートなんかは、右打者にとっては魔球と言われ、一定の相手には絶対の球種と言われていましたが、つまりはピンポイントの役割のようなものかもしれません。
もう一つ気になるのは、「ジャイロ」です。ジャイロも球種の一つですが、その性質から、キメラアントになったにも関わらず、その生態に支配されず、我が道を行った唯一とも言えるキャラだと言えます。
「名は体を表す」ではないですが、物語を面白くするには、ただいるだけなのではなく、役割を持たせ、しっかりと役割を果たす事が、重要なことです。
これは、二次元に限らず、人生劇場という名の映画を生きている私たちにも言えることかもしれません。
自分が主人公であっても、時には誰かが主人公の物語に登場することがあっても、自分の役割を果たす事が大事です。その役割は、おそらく後にならないとわからないのですが、役割を果たすということは、私は「自分らしく生きること」だと思っています。その為には、自分のキャラをよく知らなければなりません。作者の立場で言えば、キャラのことをよくわかっておかなければなりません。
キメラ編を見ると、その役割がしっかり果たせているから面白く、パズルのピースを埋めるが如く、物語が完成しています。この構成力は、やはりずば抜けていますね。
カイトの転生
女王から生まれ、胎児としてコルトに取り上げられた「レイナ」は、
「レイナじゃないもん!私の名前は、カイトですぅ!」
後に明かされますが、カイトの名前にも秘密があります。
カイトはゴンの父であるジンの弟子ですが、二人の名前を合わせると「ジンカイト」となります。「ジンカイト」とは、宝石の一つで、その意味は「失った活力を取り戻す」とか「再生」と言う石言葉があります。つまり、最初から、カイトは死に、再生するという展開は、キメラアント編では決まっていたことなのです。もっと言えば、HUNTER×HUNTERが始まって、最初の方に既に登場していますが、HUNTER×HUNTERを作っていく上で、既にキメラアント編が構想にあり、カイトが再生することは決まっていた、と考えると、どれだけ天才なのでしょうか。
蟻 VS 人類
あまりに強くなってしまった王を倒したのは、人類の武の極みではなく、もう一つの武器である「科学(進化)」でした。
この結末に関しては、色んな意見があり賛否両論ありますが、王対ネテロではなく、蟻対人類という視点で描いていると思うし、そう見ているので、私は全然納得です。「科学」も人類の培ってきた力なのです。
だから、ネテロ個人は負けたけど、人類は勝った、というわけですね。
そして、勝ったからこそ人類が正しいとかではなく、蟻を倒したのは「底すらない悪意」というのが、何とも言えません。
戦いというのは、どちらが正義でもなく、どちらにも正義があり、蟻は蟻の本能として、人類は人類を守ろうとして、ぶつかってしまった訳です。
そういう意味では、早くに蟻討伐に動いたのは、大正解だったのでしょう。おそらく、人類にとっては最小限の犠牲で済み、時間が経つほど、蟻はより脅威な存在になっていたのは間違いありません。
大きすぎる敵を倒すピースとして、「コムギ」がおり、ただ倒すのではなく、そこにありえないような感動を生み出す冨樫は、やはり「神」以外の何者でもありません。
ここまで描いているストーリーは、中々ありませんよ。
単純な勧善懲悪ではなく、ただ人類が(総合的に)強いから勝った、それだけなのだと。
大きく見れば、人類が勝った事実しかありませんが、小局にフォーカスすると、そこでしか生まれないものがあり、それぞれに物語があります。
そういう描き方が、とにかくうますぎます。実際に起こっている戦争だって、どちらかが勝ち、負ける訳ですが、人の数だけ物語はあります。
きっとそこには、ありえないようなことが起き、とてつもない物語があるのでしょう。
蟻という生態
蟻は、個がなく、全体主義というか、ある意味全体を通して「個」とも言えます。
小魚の群れや、小鳥の群れもそうですが、群れという巨体を為して、天敵に抗います。
人にはない、集合想念のようなものがあり、それに基づいて行動します(人間にも無意識の中にあるとは言える)。
なので、蟻は人で言う「犠牲」は当たり前のことで、「犠牲」とも思っていないはずです。
つまり、「ALL for ONE」の概念しかない、ということです。
そもそも、弱いからこそ、生きるためにそうなったはずです。人だって、1人では大したことはできませんが、チームを組めば、何倍もの力を発揮することができます。
今年はW杯で日本代表の活躍で盛り上がりましたが、選手も言ってますが、「一つにまとまる」ことが、勝ち進んだポイントだと思います。
蟻の恐ろしさは、まさにそこにあります。個の犠牲を厭わず、厭わないどころか、むしろ犠牲がシステムの一環として、プログラムされているかのようです。
嫌だ、とか嬉しい、という感情はないのでしょう。
つまり、蟻には個人の「アイデンティティ」がなく、あるとすれば、蟻全体としての「アイデンティティ」になるのでしょう。
言うなれば、蟻の一個体は、人が何兆もの細胞でできている細胞の一つ、と言えるかもしれません。
まるで、蟻の集団目的の為に「個」がいるかのようです。
逆に人は、「個」を重視する傾向があります。だからこそ、社会や人間関係において、相容れない人と共に過ごさなければいけないことがストレスになるわけです。
ただ、「個」を重視しすぎることは、社会性が欠落し、争いが絶えなくなるでしょう。と言っても、「蟻」のように、「個」がなく、「集」「全」に偏っても、社会主義、全体主義になってしまい、人間が感じる幸福度も変わるでしょう。
何事もバランス、ということなんでしょうね。
宗教は蟻のようなもの
蟻の全体主義は、言わば宗教のようなもので、その宗教が崇める「神」に対して「信仰」という共通認識を取ることで、蟻のような集合した一個体のようになります。
「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という言葉があります(ビートたけしさん発祥)。集合意識の強さはまさにそこにあります。ある目的の為ならば、渋谷のスクランブル交差点で迷惑を顧みずフィーバーする訳です(笑)
本来なら、とんでもない迷惑行為でも、大義名分があれば、実行できてしまうのです。それはとても「信仰」に似ていて、自分たちが良かれと思うことは、成立してしまうのです。だから、「自爆テロ」というようなことが起こせてしまったり、そもそも戦争も起きてしまうのです。
いつも疑問に思うのですが、元々宗教は人が幸せになるために存在してるはずのものが、なぜか現状は人同士を分離させ争わせて、人の幸せを破壊する存在になっているという矛盾です。本来は、人の幸せや平和の為に存在しているはずなのに。
これはそもそもの構造自体が間違っているというか、違う目的のために作られているとしか思えません。そんなことを性懲りもなく何千年もやってきて、さらに同じような「争いの種」を持った新しいものが近年でも次々と作り出されています。
宗教にどっぷりハマるということは、人間を辞めて蟻になるようなものなのかもしれません。
蟻は、蟻全体を守る為、蟻全体が生き残る為、時には集団で象ですら倒すこともあります。使命のためなら、蟻が象を倒すように、個の命を問わず、個を犠牲にして、文字通り「何でもする」のかもしれません。
それが時に、大きな力を発揮し、奇跡と言われるようなありえないことを起こすこともあります。しかし、信じすぎて「蟻化」してしまうと、テロや戦争を起こすこともあります。
ユピーは、ナックル達と戦い、人間性のようなものが芽生え、武士の情けをかけてナックル達を見逃すという、蟻ではありえないことをします。ナックルは、そんな思いを汲んでくれたユピーを、もう敵としては見れないと言います。
しかし、それを禿げたノヴが一蹴します。
「王だよ。王がタクトを振れば、奴らは何でもやる。」と。
王がタクトを振れば蟻が何でもやるように、かつての「オウム真理教」のように、教組がタクトを振ると、信者も同様、何でもやる危険性があると言えます。たとえオウム真理教のような過激な行動に出ないとしても、そもそもカルト宗教の本質は全く同じようなものです。そういう意味で、宗教と蟻社会は似ている部分を感じます。
キメラアントの本分は蟻です。一時的に人間性が出てきても、蟻は蟻です。
逆に、人間が一時的に蟻性(集団性)を発揮すると、W杯で勝ち進むようなことが起きたりします。
大切なのは、しっかり「個」として自己確立した上で、全体に対して自身の能力(役割)をもって貢献していくという順番なのかなと思います。
そういう視点を持って、下手なカルト宗教にハマって、盲目的に犠牲を厭わない蟻にならないように気をつけることが大事ではないかと思います。
ゴンは王に勝てるか
色々議論されているテーマではありますが、果たして、ネテロが勝てなかったメルエムに勝てるのでしょうか?
自分の見解の前に、ネット等々で言われていることは、覚醒前のメルエムになら勝てたかもしれないけど、覚醒後は無理、という声が多いようです。どちらかというと、勝てない、という意見が多いみたいですね。
では、私の見解を言いますと、ゴンはメルエムには「絶対に勝てない」というのが結論です。絶対に勝てません!誰がなんと言おうと、絶対に勝てません!!
落ち着いてください。ちゃんと理由があります(笑)
ゴンがピトーに勝てたのは、ゴンさん化したからです。ゴンさん化すれば、覚醒前のメルエムにはいい勝負をするかもしれません。ただ、メルエムを相手に、ゴンがゴンさん化することはないということが、ゴンが勝てない理由です。
なぜなら、ゴンさん化したのは、中編-②で述べたゴンさん化の理由に述べているので、そちらをご覧頂きたいですが、ピトーに対してはカイトの仇であり、恨みがあり、そして自責の念によって、ゴンさん化しました。つまり、メルエム相手では、ゴンさん化する理由がないのです。
ゴンさん化は、ある意味幾つもの偶然の重なりではないですが、偶発的に起きたものではありません。ピトーが相手だったから、プフの企みがあったから、カイトが死んだから、というような、複数の条件と、ゴンの性質によってゴンさん化したのです。ゴンさん化は、それだけ特別な現象なので、メルエム相手にゴンさん化できない以上、勝てる訳がありません。議論するだけ無駄、と言うものです。
「真面目か!」というツッコミが入りそうですが、もしもの話、仮の話をするとするならば、覚醒前のメルエムにも勝てないのではないかと思います。それは、「軍儀」を経験したからです。つまり、コムギと出会う前ならば、勝てるかもしれません。メルエムが。限りなく純粋悪に近いということもあります。
それだって、仮の話なので、そもそも成立しないので、ゴン対メルエムというのは、言うだけ不毛、というのが結論です。残念(笑)
キメラアント編の立役者
上司にしたいNo.1!モラウという男
煙を使う、ナックルとシュートの師匠であるモラウは、男気の塊で、まさに漢(おとこ)!
元々は「海人(うみんちゅ)」だが、ネテロのサポート役として討伐に参加することになった。
煙を念で操作する「紫煙拳(ディープパープル)」を使うのだが、とにかく応用力が高く、モラウも「俺より応用力のある能力者に会ったことがない」と述べている。
一撃必殺の能力もいいですが、以前にも述べたように、強すぎる能力は、否定するつもりはないですが、攻略されると脆いものです。能力の強さも大事ですが、何より本人の実力こそが大事で、念能力が自分の力や精神力を生かすような能力が望ましいと言えます。
そういう意味では、モラウはトップクラスだと言えます。
他にも応用力が高い念能力者だと、キルアの「神速」やヒソカの「バンジーガム」があります。キルアの場合、充電が必要になってしまいますが、伸び代は高そうです。ヒソカも、攻略しにくい能力なので、自分が最強だと思っているのも頷けます。モラウの場合、パイプがないと煙が出せないのが難点です。プフにパイプを取られてしまった時は、明らかに動揺し、新たに技も出せませんでした。しかし、そこで、腹を括って勝負に出られる精神力はさすがです。
とにかく心意気や漢気に溢れ、面倒見もよく、プロ意識や現場で仲間の判断を信じる、現場のプロ。こんな人が上司でいたら、言われなくても頑張りたくなるでしょう。部下を持つ人は、モラウのプロ意識や部下を思う気持ちなどは、かなり参考になるのではないでしょうか?
経験も豊かで頼り甲斐のあるモラウは、「上司にしたい人No.1」なのは間違いないでしょう。
それに対してノヴは・・・、いや、何も言うまい(笑)
隠れた影の立役者
この作品を通して、大活躍した影の立役者がいます。
それは、「堀内賢雄さん」です。
誰?と思う方もいるかも知れませんが、はい、中の人です(笑)イカルゴの声優を務めているのですが、実は他にも複数担当しています。他のメインキャラだと、ゾルディック家執事のゴトーや、コアラのキメラアント、他にも名のないキャラを多数演じています。
昔から個人的に大好きな声優さんで、イケ声の持ち主です。特に、アメリカのコメディドラマ「フルハウス」のジェシー役はハマり役で、イケメン担当することが多いです。
イカルゴも、中身はイケメンで、中身がイケメンっぷりはかなりフィットしていると思います。
アニメを見ていて、堀内賢雄さん探しをするのも面白いかも知れませんよ?
キメラアント編後編のまとめ
4回に渡ってお送りして来たキメラアント編がついに終わりました。まぁ、原作の半分近くはキメラアント編なので、それも仕方ありませんが、それだけ重みのあるシリーズなのは間違いありません。
名作に名シリーズ有りと言えますが、キメラアント編は、物語としてはHUNTER×HUNTERを代表するシリーズなのは間違いありません。ドラゴンボールのナメック星編、ワンピースのアラバスタ編などなど、好みはあるでしょうが、作品を代表するシリーズです。
キメラアント編の主人公は、間違いなくメルエムです。この構成は、敵味方どちらが正義でどちらが悪か、わからなくなります。言うなれば、蟻と人類、どちらも悪で、戦いに勝った人類の方が「巨悪」と言う結論なのかもしれません。
つまり、「正義」なんてあってないようなもので、それ自体には大して意味なんてない、って事です。大抵「正義」を振りかざす奴は、実質的にやってることは悪と変わらないですからね。てっきり自分を守ってくれるのかと思っていたら、立ち位置が変わればアッという間に牙を剥いてくるものです。正義か悪かではなく「立場が違う」というもので、本質的には正義も悪も、変わらないってことです。己の正義感には従うべきだと思いますが、他人の掲げる正義は、自分にとって幾らでも悪に成り得ます。国がどうとか、周りがどうとか、皆が言ってるとか、世間でこう言われてるとか、こうあるべきだとか、そう言う言葉に惑わされず、
「自分自身の正義を見つけて、それに従うこと。」
このような言葉で、キメラアント編を締めくくりたいと思います。
さて、次回はいよいよ最後のシリーズ「会長選挙編」です。キメラアント編のような大きな動きはありませんが、その分静なる深みが存分にありますので、じっくりと掘り下げてお送りしていきたいと思います!
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