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続・終物語(化物語シリーズ)のセリフに見る「神」の所在
『続・終物語』のあらすじ
『化物語』シリーズでは一番新しいシリーズの『続・終物語』。
直江津高校を卒業した主人公の阿良々木暦。大学の合格通知も届いていない今、高校生でも大学生でも浪人生でもなく、何者でもない、ただの阿良々木暦。
その限られた時間に起こった、ただの阿良々木暦が体験した、鏡の世界へと旅する不思議な物語。
ある朝、洗面台で顔を洗い立ち去ろうとすると、異変に気付く。鏡の中の自分は、鏡の中から動いていない。おかしいと思い鏡に手を伸ばすと、鏡の中に吸い込まれてしまう。
そこに現れた、風呂上がりの妹、火憐。その姿は、元いた世界とは違うものだった。
本来の妹の背よりも小さく、髪も短い。男勝りな性格なのに、どこか女性らしく、声が反転しているかのようで、字幕は反転している。
しかし、もう1人の妹の月火は何も変わっておらず、いつも通り。
感情のない人形である斧乃木余接は、いつもは無表情だが、ねじ曲がった性格を表情豊かに表現している。
鏡の中の世界は、単純に姿形が反転した世界、というわけではなく、この世界の「裏側」だった。
阿良々木暦は、なぜ「鏡の世界」に入ってしまったのか。どうすれば元の世界に戻ることができるのか?
『終物語』で終わったはずの、その続きの物語。それは、阿良々木暦が、文字通り「鏡」を通して「裏側」を知るための物語だった。
鏡の中の世界は、「裏側の世界」
『化物語』は、以前にもコラムに取り上げました。
長編作品なのでシリーズ化を考えているのですが、今回は、作品の紹介というよりも、私がピンポイントに反応した箇所にスポットを当てて、展開していきたいと思います。
神原駿河の母、臥煙遠江
注目したいのは、『化物語』の世界では生存していない、神原駿河の母親である臥煙遠江とのシーンです。死んだはずの臥煙遠江は、鏡の中の世界には存在していました。
阿良々木暦は、鏡の中の世界にいた、キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードから、神原家のお風呂に、元の世界に戻るヒントがあると聞き、阿良々木は向かいます。そして、湯面を見るつもりが、「入浴すると、将来の伴侶の姿が見える」ことを思い出し、斧乃木余接のお言葉に甘え、本当に入浴する。事後、斧乃木余接には大説教されてしまうが(笑)
湯船に浸かっていると、突然現れたのは、神原駿河の母であり、なんでも知っている臥煙伊豆湖の姉でもある、死んだはずの臥煙遠江。
どことなく娘の神原駿河に似ていて、裸を見られても恥ずかしがらない所はもっと似ていた(笑)
阿良々木暦の探し物は、この風呂場にはないと告げ、代わりに暦は、背中を流してもらうことに。
そこで明かされた、神原駿河が取り憑かれた怪異「レイニーデビル(猿の手)」の正体。それは、臥煙遠江の分身であり、遠江の裏面だった。
決して、娘の為に残したわけでも、娘を邪魔する為に残したわけでもない。
臥煙家は、化物づくりの専門家だった。言い換えれば、自分の裏側(怪異)と向き合っていく家系だと言える。その本質は、
「自分の裏面とどう向き合うか」
ということ。「裏面だからって、背中合わせになってちゃダメなんだ」と、遠江は続ける。
「自分の背中をどう見るか」
自分の背中を見るには、鏡を使わなければ見ることはできない。つまり、鏡とは「色んな角度から自分と向き合うための装置」だと述べます。
娘の神原駿河の左腕となった「レイニーデビル」という悪魔は、臥煙遠江の裏側であり、そんな自分と対峙した結果、臥煙遠江は死に、その遺体が怪異となって、左腕を娘の神原駿河が受け継いだ、ということです。ただそれは、「自分のようにはなるな」という、娘へのメッセージでもありました。
「裏側」を見るには「鏡」がいる
この一連のシーンでのキーワードは、「鏡」「裏側」です。
例えば、自分の体の「裏側」である背中を見ることは、普通の人にはできませんよね。自分の背中を見るには「鏡」が必要となります。
言い換えれば、「鏡」を使うことで、自分の背中、即ち自分の裏側を観ることができる、ということになります。
言い回しとしてはそうなりますが、では、「鏡」を見て、自分の裏側や内面を見ることはできるでしょうか?
鏡を見て映し出されるのは、自分を形為す姿だと思います。
続・終物語に垣間見た、神の所在
日本において「鏡」とは「神」の象徴
神社では、「神様」が祀られていますが、境内の中をよく見たことはありますか?そこには、多くの場合丸い鏡が御神体として祀られています。
神社に限らず、立派な神棚をお供えしているご家庭や飲食店などでは、ちゃんと鏡を祀っている方もいるのではないでしょうか。
古来より、日本では「鏡」を神の代わりとして祀られています。ある意味「鏡」とは、「神」であるということです。
そして、「鏡」を使って見る事しかできない「裏側」にこそ、「神」は存在するのかもしれません。つまり、「鏡」に映し出される自分自身がこそが、実は「神」であり、それを知る為に象徴として「鏡」を用いる。その為には、自分の裏側を見て向き合う必要があります。
別に、神の証明をしたいわけではなく、宗教でもありません(笑)。ただ、どこぞの宗教が崇める、訳も分からない「外にいる神」を信じても、その教祖や教団に利用されて、人生振り回されるだけです。鏡を通じて映し出される自分自身の裏側と向き合う中に本当の神がいる、と考える方が、よっぽど健全で、自分らしい人生を生きることができるのではないでしょうか。
神とはどんな存在なのか?
神=役割(お働き)
例えば、日本には八百万の神がいます。天照大神を始め、須佐之男命、伊邪那岐命、伊邪那美命など、『ナルト』の技にもなっている神々がいます。
古事記・日本書紀では、神々の逸話が描かれています。実在した神だと言われてもいますが、語り継がれる物語は、どう考えても「人間」を超えています(笑)。人間とは思えないような存在だったからこそ「神」と称されるのかもしれませんが、日本の神々は、実在した人間というよりも、「役割の人格化=お働き」とも言われています。
『はたらく細胞』という作品では、人間の体の中の細胞を擬人化させた作品として、私も神アニメに認定しています。言ってみれば、古事記・日本書紀や神話というものは、細胞を擬人化させた物語ではなく、自然や世界の仕組みそのものを擬人化させた物語なのかもしれません。つまり、「細胞のお働き」という神仕組みだったりするのかもしれません(^^)
西洋の神話
神話があるのは日本だけでなく、世界各地に似たような神話は幾つもあります。有名なところだと、ギリシャ神話の神、ゼウスなどは、もうめちゃくちゃやってたりします(笑)。伝説では相当の女好きで、多くの女性との間に子供を作り、その子供たちもまた、神々と呼ばれています。今の「一夫一婦制」からすれば、崇められる神どころか、見習うべきではない「悪魔」と言われておかしくないかもしれません(笑)
ゼウスがやったこと(浮気しまくって子供を産ませまくったこと)は、現代では非人道的なことかもしれませんが、善悪を無視して事実だけを見れば、優秀な遺伝子を各地に残した、と言えます。物事には、表と裏があり、絶対悪がないと言われているように、絶対善もありません。善の裏にも悪が潜んでいたり、悪の裏にも善があったりするものです。
ゼウスの是非や実在は別として、「役割」という点で見れば、見え方は変わってくるのではないでしょうか?
「自分と向き合う」ということは「役割を知る」こと
自分の裏側と向き合う
私は、「自分と向き合う」ということに惹かれ、自分と向き合う姿が描かれることに強く感動します。これまでも、数々の神アニメを考察し紹介してきましたが、どの作品にも共通するのは、「自分と向き合う」ということです。もっと言えば、自分が見たくない部分、闇の部分、醜い部分、つまりは「裏側」と向き合っているということです。
『続・終物語』では、阿良々木暦が鏡の世界に入ったことで、出会った様々な人の裏側と接し、最後には自分自身の裏側とも向き合いました。まぁ、幾つものシリーズを通じて、散々向き合ってきて、『終物語』で決着がついたかと思いましたが、その仕上げが『続・終物語』だったと言えます。
何より、自分の裏側と向き合うことの意味や、その「裏側にこそ神がいる」ということを、私に気付かせてこのコラムを書かせる為に、続編が描かれたのかもしれません(笑)
裏側を知ることで、自分の役割(神)を見ることができる
「神」とは「役割」の象徴であると述べました。
「鏡」を象徴として己の裏側と向き合うことで、自分の全体像を認識することができます。つまり、自分はどういう存在なのか、その意味や理由、「役割」を知ることができるわけです。
「神」が「役割」であるのなら、自分の「役割」を知ることで、自分自身が「神」になるとも言えます。一般的に認識されている、万物を創造したとされる、拝む、崇められるような「神様」になるのではありません。それでは、怪しいカルト宗教にされるのがオチです。自分の表も裏も受け入れて認め、自分の存在意義や役割を知ることで、「神」になるのです。大げさに聞こえるかもしれませんが、少なくとも、自分に見えている世界においては、自由に創造(想像)できる「神」になることができます。
彼も神、我も神
よく、相手は自分にとっての合わせ鏡と言います。「鏡」が「神」であるならば、相手は「神」ということになります。そして、自分も誰かにとっての「鏡」になるので、我も神、ということになります。
日本では、古来から「万物に神が宿る」と言われており、八百万の神と称しています。そのことから「彼も神、我も神」とも言われたりしていますが、「鏡」となって、相手にとって必要な役割を果たすことで、「神」になるのかもしれません。
嫌なことがあっても、「役割」を知ることで、意味を見出せたり、無駄にすることは無くなります。「せい」にするのではなく「おかげ」にすることができるのです。
この、「せいをおかげに」という言葉を、座右の銘の一つにしていますが、【道楽舎】というコミュニティの理念でもあります。
「役割」を知れば、「悪」も「悪役」となり、倒されるだけの存在ではなく、意味や価値を生みます。だから、「せいをおかげに」していけるのです。
鏡の豆知識
ちなみに、鏡に映る姿は、100%を映し出すことはできず、20%くらいはぼやけてしまうそうです。つまり、鏡で見ている自分は、アキラ100%ならぬ、自分80%、というわけですね(笑)
ちなみにこれは・・・
アキラ80%です(笑)
20%透過させてみたのですが、20%でこんなに変わるんですね(笑)
『化物語』は、自分の裏側と向き合う物語
過去のコラムでも述べましたが、「怪異は自分のマイナスエネルギーの顕在化」であると考えています。現実ではあり得ないように見えても、もし現在化したら、こうなっているかもしれないという作品かもしれません。
実際、『化物語』に登場する怪異は、日本では言い伝えのある妖怪や神だったりします。過去のエピソードを用いて、一部紹介していきます。
戦場ヶ原ひたぎ×重し蟹
例えば、戦場ヶ原ひたぎが向き合った「重し蟹」は、「重さ」と「思い」を引き取る怪異であり、神でした。
戦場ヶ原は、重し蟹に体重を奪われ、5キロしかありませんでした。軽すぎる体重ゆえに、文房具をそこら中に入れておくことで、カサ増ししていました。
そんな戦場ヶ原は、阿良々木暦の協力を得て忍野メメと出会い、対処してもらうことに。「重し蟹」を倒したり消し去るのではなく、自分の醜い部分である母親への本心を認め、土下座して謝ることで、重さ(体重)と思いを返してもらい、解決しました。
その後、彼女は体重を取り戻し、阿良々木暦と友達になることに。その後、羽川翼を差し置いて、「コヨコヨ」と呼ぶ恋人になりました。ツンデレ(ツンドラ)ヒロインとも呼ばれていますが、他の色んな女の子と仲良くしてても許してくれる度量の広さのおかげで、長く『化物語』シリーズとして続いています。もし、羽川が正ヒロインだったら、こうも阿良々木暦の自由を許してくれなかったかもしれないですね(^^;
八九寺真宵×迷い牛
八九寺真宵は、自分自身が「迷い牛」という怪異でしたが、それは、別れた母親に会いに行く途中に交通事故で死んでしまったため、目的地に辿り着けないという怪異になってしまいました。阿良々木暦は、戦場ヶ原の協力を得て、区画整理によって八九寺が死んだ当時にいはない道を通って、八九寺母の家に辿り着きました。現在そこは空き地になっていたものの、当時の記憶そのものの八九寺真宵は、目的地に辿り着いたことで、その姿は光に包まれて消えて行きました。その後、すぐに阿良々木暦の元に現れることになるわけですが(笑)
八九寺のエピソードは「まよいマイマイ」といい、「かたつむり」をイメージしていますが、かたつむりを漢字で書くと「蝸牛」。カタツムリと牛にはこんな繋がりがあったのですね。カタツムリの殻の渦が、「迷い」を示しているようです。
八九寺真宵は、阿良々木暦にとって、なくてはならない少女ということで、家に帰ることができて成仏したわけですが、すぐさま戻ってきました。しばらくは、暦との恒例の「失礼、噛みました…」の掛け合いを続けてくれますが、役割を失った怪異は、続編の「しのぶタイム」で、その存在が許されることなく暗闇に襲われ、逃げ続けられないと悟った結果、世界から消えることを選びました。
阿良々木暦にキスをして、いつものセリフを言うのです。
「失礼、噛みました」
それでも、魅力あるキャラ八九寺真宵は、世界(私たち)から求められていたが故に(笑)、阿良々木暦を助け、再び舞い戻り、空席となった北白蛇神社の神として祀られ、名実ともに「神」になりました。
ちなみに、『続・終物語』では、八九寺お姉さんとして登場します。他のシリーズにも一度登場しましたが、生きていれば、21歳の素敵な色っぽいお姉さんになっています。
羽川翼×障り猫・苛虎
化物語において、唯一二つの怪異を抱えた化物、羽川翼。「つばさキャット」「つばさタイガー」という二つのタイトルを持ちます。羽川翼は、堀江由衣さんがCVを務め、私に取っては八九寺真宵と並んで一番好きなキャラではありますが、『化物語』の中では一番ぶっ飛んだキャラだとも言えます(笑)
歪んだ生い立ち
羽川はとても複雑な生い立ちです。
父親は誰か分からず、羽川が生まれた後に母親は別の男性と再婚。しかしその母親は、羽川が眠るベビーベッドの上で首を吊るという悲惨な過去があります。その後、血の繋がらない父親と二人になるも、義父もすぐに再婚。しかし、義父も過労死してしまい、今度は義理の母と二人に。その義母もまた別の男性と再婚。それが、現在一緒に住む両親ですが、彼女には血の繋がった家族はいません。赤の他人と暮らしているのです。
そして、羽川は立派な家に住んでいるにも関わらず、自分の部屋がありません。廊下に布団を敷いて寝ているのです。自分の家に自分の部屋がないのは異常なことですが、それは、血の繋がりがなく、全くの他人であることで、甘えることができず、誰もが当たり前にしている家族へのわがまま一つ、言うこともできないのです。
そんな環境で育ったことで、羽川翼という「何でもは知らない、知ってることだけ」の人間は、誰よりも歪んで育ってしまったのでしょう。圧倒的な正しさを持つ羽川ですが。その反面、圧倒的な異常さも持ち合わせているのが、羽川翼という人間です。
私が羽川翼を一番好きな理由は、そんな異常さと向き合い、受け入れたからです。
猫物語(黒)「障り猫」
「障り猫」は、羽川が押さえつけた多大なストレスを発散する為の怪異です。羽川翼とは思えないような言動で、通称「ブラック羽川」と呼ばれています。な行を「にゃ行」で表現してくれて、ダイナマイトバディを惜しげも無く披露してくれる、高いサービス精神を持ちます(笑)
ファンなら知っているであろう、このセリフもブラック羽川によるものです。
(ちなみに、大の堀江由衣ファンを公言している神谷浩史さんですが、にゃ語を言い終わった後の阿良々木暦の「くぁわぁいぃぃぃ〜!!」は、神谷浩史さんの心の叫びなのかもw)
羽川に命を助けられた恩がある阿良々木暦は、命がけで羽川と向きあい、羽川から「障り猫」を引き離すことには成功しました。
しかし、「障り猫」は、羽川の本性の一部を解放しただけで、怪異に取り憑かれたからおかしくなった訳ではない、ということを、阿良々木暦も羽川も気付いていました。「障り猫」をどうにかするのではなく、自分の中にある根本をどうにかしなければならないことも。
この時点では、まだ羽川は自分の「裏側」と向き合えてはいません。ただ、否応なく自分の本音を知ることになりました。
ストレスは落ち着き、ブラック羽川になることはなくなりましたが、それで終わったわけではありませんでした。「裏側」と向き合わなかったことで、更なる凶悪な怪異を生み出してしまいます。
猫物語(白)苛虎
猫物語(黒)の続編である猫物語(白)の「つばさタイガー」では、苛虎(かこ)という怪異を生み出してしまいました。
この怪異は、火を使って燃やし尽くしてしまう怪異です。苛虎は、羽川にとって思い出の場所を焼き払って行きました。自分の家や学習塾跡、戦場ヶ原家など、自分が寝泊まりした場所が燃やされましたが、この苛虎は、押し殺した「嫉妬」によって生まれた怪異でした。
阿良々木家にも泊まったことで、阿良々木家に危険が及ばないように、「障り猫」の力を借りて、「ブラック羽川」になって苛虎に立ち向かいます。しかし、勝つことはできず返り討ちに。またまた羽川の危機に馳せ参じた阿良々木暦の助太刀によって、苛虎を撃退しました。
ただ、苛虎が消える前に羽川がしたことは、苛虎を生み出すほどの「嫉妬」の原因を、認めて受け入れることでした。
羽川は、勇気を出して一世一代の告白をして、しっかりと振られて子供のように泣きじゃくりました。
ずっと逃げていた振られる恐怖と向き合い、ちゃんと傷つき、自分の醜さを受け入れたのです。そして、ただただ愛されたかった。当たり前のように、親に頭を撫でられたかったのです。
羽川は、白髪混じりの髪になってしまいました。
羽川翼の、歪み過ぎた「裏側」
羽川翼が生み出した怪異は、自分自身の醜い「裏側」だと言えますが、醜さを切り離すことで、自身の正しさを保っていたと言えます。つまり羽川は、自分の「裏側」と向き合うことをせず、切り離していたことで、それが怪異を生み出した訳です。
大きく歪んだ環境に育ち、大好きな阿良々木暦は、自分ではなく別の女性と付き合い、他にも多くの女性と関わって阿良々木ハーレムを作ることに嫉妬を覚え、振られることが怖くて告白もできなかった。
それでも、自分の醜さを受け入れ、勇気を出して告白をした羽川には、何の弱点もなくなりました。そして、羽川の掲げる「正しさ」にはしっかりとした「裏側」が加わり、まさに神のような完璧に近い存在となったのです。
思い入れがある分、ついつい羽川翼の例はとても長くなってしまいましたが(笑)、羽川は、しっかりと自分の醜い「裏側」と向き合い受け入れました。だから私は羽川が一番好きだし、羽川のキャラソンである『chocolate insomnia』を聴くと、泣けてくるんです。
OPサイズなので1番までしかないですが、2番の歌詞が泣けます。
「本当は全部 識らなかったの
本当は全部 理解っていた
目を醒まさなきゃ いけないんだね
君との朝ではなくても」
もはや私は、羽川翼を愛していると言っても過言ではない。一つ断っておきますが、顔が可愛いからとか、声が可愛いからとか、巨乳だからというわけでは断じてない!…では、顔も声もブスで貧乳だったらどうかって?…そそそそれでも私は、羽川翼を愛してますぅぅ~(裏声)
羽川への想いが強すぎて、長くなり過ぎてしまったので(笑)、他の怪異譚は割愛します。まぁ、以前のコラムにも書いてあることなので、ぜひそちらもご覧ください(笑)
ちなみに、『続・終物語』では、ぺったんこのロリっ子羽川として登場するので、羽川ファンは必見です(笑)
『続・終物語』が描いた「今回のオチ」
高校を卒業することで、自分の心残りを果たす為に、「鏡」の世界を引っ張り出してきてしまった。
それは、子供から大人になっていく上での通過儀礼のようにも見えます。
阿良々木暦が「鏡」の世界でしたことは、「ただ、思い出して、向き合った」だけ。
心残りがあったとして、全部は背負えないし持ってはいけない。
理想の自分と、鏡像(虚像)の自分。「鏡の世界」あったのは、阿良々木暦が出会った人たちの「裏側」であり、心残り。そして、虚像だったのでしょう。
「鏡の世界」の旅路を終え、元に戻った世界で会った戦場ヶ原の言葉で、阿良々木暦は確信しました。「鏡の世界」には、戦場ヶ原ひたぎはいなかった。つまり、戦場ヶ原に対しては、何の心残りも、虚像もなかったということ…。
これから大学生になり、大人になっていく上で、戦場ヶ原とどう付き合っていくのか。阿良々木暦にとって、これからを生きていく次なる物語へと進んでいく為に、決別する儀式だったのかもしれません。
たとえ、どんな後悔があったとしても、後悔するに至った事実を覆すことはできません。だからと言って、悔やみ続けて、過去に縛られて生きていっても、どうなるわけでもありません。
ただ、忘れられないほど悔やんだり、過去の栄光に浸って何もできないでいるよりも、「たまに思い出すくらいでちょうどいい」のかもしれません。
ちなみに、「神アニメ」の最高峰である、『Re:ゼロから始める異世界生活』からも、引用して紹介しようとしていたのですが、あまりに長くなってしまうので、今回のコラムと関連付けて、また別の機会に紹介したいと思います。
ぜひそちらも合わせてご覧くださいね!
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