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『進撃の巨人』完結記念!(後編) 進撃の巨人が描く、人類の業と本能
世紀の大発明『進撃の巨人』。その魅力は、一本のコラムでは語るには足りず、今回は後編をお送りします。
今回も、ネタバレ全開なので、アニメ勢の方は、このコラムをブックマークして、アニメの最終回を観終わったらお読みください!
前編では、主に明かされなかった謎である「ミカサの頭痛」について、解明したと息巻いて考察しました。
https://zero-animelife.com/end-of-titan1
所詮、考察に過ぎないので、答えは諌山先生しかわかりません。まぁ、答えが決まっている必要もないのですが(^^;
ただ、考察したように物語を見て行ったら、色々と辻褄もあったり理解も深まることもあります。さらには、新たな発見もあったり、より『進撃』の世界を知る事ができるようにも思います。
ほとんどの伏線が回収され、謎も解明された稀有な神作品ではありますが、明確な答えが出ていないからこそ、「あーでもないこーでもない」と考察をできる楽しみもあったり、「実はこうなんじゃない!?」という発見もできたりするものです。
ある意味、そういう余地があることも、神作品であるポイントなのかもしれませんね。
最終話で描かれる、人類の本質
「ありがとう、殺戮者になってくれて」というセリフ
このセリフだけを見れば、コンプライアンス大好きな人が飛びついてきそうなものです(笑)。実際、「虐殺の肯定だ!」という非難もあったそうです。ただ、愛読している我々にとってみたら、このセリフや殺戮者になったエレンの背景を知っているので、もっと深く理解することができるはずではないでしょうか。
殺戮者になることは、決して許されることではありませんが、仮にそうするしか方法がないのだとして、果たしてその道を進むことができるでしょうか?
殺戮者になったとして、誰から感謝されましょうか。
仲間たちでさえ、記憶を改竄されたことを差し置いても、エレンの行動を真に理解できた人はいません。エレン死後、記憶を消される前のエレンとの会話があったことが明かされ、別れを告げていたことが明らかになりました。
それは、エレンが自分を忘れないでいてほしい、真意を知っておいてほしいという思いがあったことが、伝わってきます。世界から憎まれても、仲間にだけはわかってほしい、という。最終話でゲスミンに見せた、ミカサへの本音は、久々に見せたエレンの弱さでもありました。
そして、誰にもできないことをエレンは一人で実行し、真の目的である「この世から巨人化能力をなくす」為に、手段として地ならしを発動し、自身は諸悪の権化として大量殺戮者になりました。
それでも、「ありがとう」とアルミンが言ったのは、諌山先生の、エレンの思いを尊重したからでしょうし、何より道楽的な意味合いがとても強いです。
殺戮者という、悪やマイナスなことに、ありがとうと言えることは、簡単ではないどころか、無理な話です。
ただ、背景を知り、本質を掴んでいたのなら、表面的に見える悪の裏には、愛や正義があることを知ることができたらどうでしょう。
単純に、「悪・即・斬」というわけにはいかないのではないでしょうか。
(画像出典:『るろうに剣心』和月伸宏/集英社)
表面的な部分だけを見るのではなく、どれだけその裏や背景を見ることができるか。その全体像を認識した上で物事を見なければ、甘い言葉やうまい話にコロッと騙されてしまうでしょう。
少なくとも、『進撃の巨人』という作品では、エレンの犯した「悪行」の背景をしっかりと描いたと思いますし、それを踏まえた上で、描かれたストーリーを表面的に批難してしまうのは、背景が見えていない何よりの証拠ではないでしょうか。
愛を描いた感動作品であれば、表面的に受け取っても涙してしまったり、感動することもあるだろうと思います。しかし、『進撃の巨人』のような、過激で残虐な表現がある作品では、「ウラヨミ」しなければ、見えるものも見えないでしょう。
『コードギアス』との共通点
マーレ編以降、エレンの目的は、『コードギアス』でいう「ゼロ・レクイエム」ではないかと考察されていました。
「ゼロ・レクイエム」とは、ルルーシュが「悪虐皇帝」として死に、悪名を残すことで、ギアスの誤発動で死なせてしまったユフィの「虐殺皇女」という汚名をすすぐと共に、世の悪を一身に背負い、世界をリセットするというもの。
裏切られてしまったと悲観して無気力になっていた妹のナナリーは、兄の手に触れました。その真意に気付いた時、大切なものを失い、もう取り戻すことのできないことを知り、号泣するのです。
その「ゼロ・レクイエム」を『進撃の巨人』では、「エレン・レクイエム」とネットでは名付けられていました。
私自身も、そのような展開になるだろうと予想していましたが、結果は、斜め上を行く展開でした。
それは、エレン自身が本当に「世界をまっさらにしたい」と思ってしたことでもあり、巨人を駆逐するのではなく、「巨人化の能力を無効にする」ということこそが、目的だったということです。さすがに、仕方なく「地ならし」を発動したと思っていたのですが、まさか本当にその気があったとは・・・
「ゼロ・レクイエム」であれば、一時的にでも「巨人への憎しみを取り去る」という展開になったでしょうけど、「地ならし」を発動して、調査兵団がエレンを止めたとしても、巨人への憎しみを断つことはおそらくできなかったでしょう。なぜなら、巨人化能力が残っていれば、巨人への恐怖は残り、アルミン達が英雄になったとしても、エルディア人自体は忌み嫌われることになっただろうと推察できます。
『コードギアス』の場合、巨人化能力は「ギアス」に当たると思いますが、「ギアス」は世間に認知されていなかったので、「ゼロ・レクイエム」で済んだのかもしれません。とは言え、「ゼロ・レクイエム」で一時的に争いは集結しても、それまであった差別や遺恨がなくなったわけではありません。
続編の『コードギアスー復活のルルーシュー』では、ルルーシュの犠牲の上に築かれた平和を、再び壊す存在が現れ、新ゼロこと枢木スザクはこう言います。
「破ったな!ルルーシュが遺した平和を!!」
形ある「争い」自体は収束しても、また次の争いが勃発する。つまり、「争い」そのものは、形を変えて無くなることはない、ということなのでしょう。
争いは無くならない
物語では、エレンの死後も「エレン派」の人たちがエレンを担ぎ、エルディアの復権を謳っていました。そして、アルミンも「争いは無くならない」と言っています。
また、最終巻で加筆されたエンディングにも、象徴的に描かれています。
アルミンが言ったように、敵とも手を取り合った物語を聞いたことで、一時的に争いは止まったものの、時が経ち、誰もがその物語を忘れてしまった頃には、再び争いが始まってしまうのです。
エレンが眠る木の周りは、文明が栄え、ミカサもついに亡くなり、やがて戦争によって滅んでいく様が描かれています。どれだけ時が流れたかわかりませんが、その後も木は大きく成長し、その姿は、ユミルが紛れ込んだ木のような姿になっていました。そこに犬を連れた少年がやってくることで、最終巻のラストが描かれました。
(ちなみに、エレン死後、ミカサは花を手向けに訪れますが、おそらくジャンと結婚し、子供もいたようです。きっと、エレンが望んだように、エレン死後10年くらいは独身だったのではないでしょうか。ジャンとの結婚後も、エレンの墓を訪れ、木の下でエレンと一緒に居眠りしているのでしょう)
エレンが「居眠り」している木は、始祖ユミルが犬に追われて迷い込んだ森にあった「ユグドラシルの木」とほぼ同じものになっていました。
これも、「歴史は繰り返す」ということを描いていると思われますが、争いや戦争は、一時的には終わっても「争いそのものがなくなることはない」ということ描いているのではないでしょうか。
『進撃の巨人』的には、エレンによって巨人化能力が取り消されても、新たな文明において、また「巨人」が誕生しているのかもしれません。もっと言えば、始祖ユミル以前にも、巨人がいた文明があって、同じように滅んだのかもしれませんね。そうやって歴史は繰り返したり、輪廻しているのかもしれません。
イジメもなくならない
争いがなくならないのと同じように、残念ながら「イジメ」そのものも無くなることはないでしょう。
「争い」や「イジメ」というものは、良くないとわかっていても、その時々で必ず起こるものです。とは言っても、同じ人が争い続ける、イジメたりイジメられ続けるといことはおそらくありません。長く続く争いは、個人間ではなく、民族間の争いになっていて、おそらく、誰も「本当の争いのきっかけ」は知らないのではないでしょうか。
作中、ガビはマーレの教育によって洗脳されていました。たとえ罪を犯さず生きていても、「ユミルの民」というだけで罪人であり、一族そのものが悪魔だと教わり、そう信じて生きていました。しかし、実際に「悪魔の末裔」と関わり、自分と変わらないその姿を知ったことで、「悪魔は自分自身だった」と思い知らされ、洗脳が解けたのです。
今世界で起こっている紛争や内紛も、何がきっかけでそうなったかを明確に知る人は少ないのではないでしょうか。「争いのきっかけ」が何だったか知らなくても、取るに足らない些細な理由であっても、いつにでもどこでも争いやイジメはあります。それが勝者にとって都合のいい情報が、教育となって伝えられてしまうのです。
当然、争いやイジメを無くす為の行動や活動を否定するつもりはありません。それは必要なことです。ただ、争いやイジメというのは、人間の持つ本質の一つであり、人類がこれまで発展してきたのも、その本質によるものだからです。
争いやイジメが「悪いこと」だなんて、誰もが分かっていることではないでしょうか。悪いとわかっているのに無くならないということは、物事は単純な善悪で判断することはできないということです。
光がなければ闇はありませんが、闇があるおかげで、光を感じ取ることもできます。「悪」も、善とは何かを知らしめる「役割」があるということなのでしょう。だから、「悪」がなくなることはないのかもしれませんね。
エレンに見る、ホモ・サピエンスの本能
争いやイジメはなくならないと述べましたが、その理由は、我々ホモ・サピエンスという人類の本能だからです。
エレン風に言うならば、
「我々が、ホモ・サピエンスとして、この世に生まれたからだ!」
という感じです(笑)
争うことやイジメることが本能?という訳ではありません。むしろ、生きるためのものだと言えます。事実、エレンが大量虐殺を行ったのは、仲間やエルディア人が生きていく為です。敵とも仲良く手を取って生きていくことができればいいのですが、「恐怖」を乗り越えられず、認め合えなければ、争いが止まることはありません。エレンは一縷の希望を捨てず、マーレに乗り込んだ訳ですが、結局壁外人類がその憎しみを乗り越えられないと悟り、「地ならし」を決断したのですから。
生きることは、生物の本能です。生き延びるには、「恐怖心」や「痛み」というものが必要です。「恐怖心」や「痛み」に鈍感だと、危機回避することができないため、命を落としやすくなってしまいます。恐怖を抱いたのなら、自分が生き延びる為には、「逃げる」か「立ち向かう」かになります。この場合の「立ち向かう」とは、相手と争ったり、場合によって「イジメ」になったりするものです。
もし、争いやイジメがなくなったらどうなるか。おそらく、人類は衰退していくでしょう。なぜなら、人類の歴史を見れば、我々ホモ・サピエンスは、生存を危ぶむ相手に対しては、異常なほどの敵対心を見せます。例えば、クロマニヨン人や北京原人と呼ばれる人類もいましたが、ホモ・サピエンスは、生き延びる為に、力が弱い代わりに、頭を使って、相手を絶滅させてきました。エレンではないですが、そのように敵を「駆逐」して生き延びてきた歴史があるわけです。もしかしたら諌山先生は、そういう人類の本能を分かった上で、エレンに照らし合わせていたのかもしれませんね。
今で言えば、「ウイルス」もその一つです。天然痘は、唯一人類が絶滅させたウイルスだと言われていますが、今も新型ウイルスをどうにかしようと、躍起になっています。それは、当然とも言えるもので、「敵」や「脅威」とみなせば、自分を守るために、相手の背景などお構い無しに、駆逐しようとする本能がある、ということです。
例えば、芸能人や有名人はちょっとでも問題を起こしたら、テレビやネットなどで異常なほど叩かれます。社会復帰できないような、場合によっては自殺に追い込むようなことも起こっています。
それを、「ホモ・サピエンスの本能だから」と片付けてはいけないと思います。
「敵」とみなしたものは、「駆逐」する本能がありますが、逆を言えば、「味方は守る」ということです。エレンもそうだったように、「敵は駆逐するけど、仲間は絶対に守る」というのが、我々人類の姿なのかもしれません。それはまさに「任侠」「マフィア」と言えます。なぜ「任侠モノ」の作品が愛されるかというのは、人類の本能に通じる部分があるからなのかもしれないですね。
誰かの犠牲の上に、幸せを享受している
『進撃の巨人』の結末は、エレンが地ならしを発動して大量殺戮者となり、最期は仲間に自分を討たせることで、エルディア人から巨人化能力を消し去り、仲間を守りました。
仲間を守るためとはいえ、エレンの行為は決して許されるものではありません。エレンも、望んで地ならしを行なったわけではなく、マーレに潜入した際、エルディアの悪魔に対する世界中の憎しみはどうすることもできないことを悟りました。未来を覗き見ることができる、「進撃の巨人」であるエレンにとっては、他に方法はなかったのです。
エレンが「進撃の巨人」となり、エルディア人を解放することは、運命か宿命で決まっていたかはわかりません。しかし、この作品で常々言われている、「世界は残酷」という事実の前に、理由や意味を知ったところで、事実は変わらない。エレンがやらなければ、エルディア人や仲間は世界から憎まれ、滅ぼされてしまう。
「戦わなければ守れない」という現実の前に、エレンはやるしかなかったのでしょう。
だって、世界は残酷なのだから。
ある意味エレンも、この残酷な世界の「犠牲者」と言えるのかもしれません。そのエレンの苦渋の行為という犠牲によって、仲間達は生き残り、「争いはなくならない」ことはわかっていながらも、「敵同士であっても手を取ることができる」という事実を伝え続けました。
つまり、エレンの犠牲の下に、エルディア人は幸せを享受することができたのです。それでも時間が経つにつれ、愚かな人間はその出来事を忘れていき、また争いを始めてしまう。しまいには、自らの首を絞めるように、文明を滅ぼしてしまうのは、何とも言えない皮肉ですね。
それは、私たちにも言えることで、今を生きられているのは、心臓を捧げてきた、犠牲になった先人たちのおかげでもあります。そういった方を弔えというつもりはありませんが、少なくとも、そういった存在がいるということは忘れずにいたいものです。それに、そう考えれば、自分の命を、幸せを、大事にできるのではないでしょうか。
『Dr.STONE』に見る「幸せの裏」
人は、幸せでありたいと願う生き物ですが、幸せである裏には、何かしら、誰かしらの犠牲があるものです。
少年ジャンプに掲載されている人気漫画『Dr.STONE』の最新話でも、似たようなことを描いています。
ネタバレがあるので、読んでいない方は飛ばしてください。
アメリカの軍人スタンリーによって、全滅の危機に追いやられた千空たち。最後の手段は、再び人類を石化させることでした。数年後、一人目覚めたスイカは、7年の時を一人で過ごし、復活液を作り、ついに千空を復活させることができました。
(この、石化が解かれたスイカの、「ひとりぼっちのホモ・サピエンス」の回は、マジ神回です。号泣して読んでしまいました)
千空に並ぶアメリカの科学者ゼノも復活させ、次の目的地「月」に向かうために、二人はロケットを作るために力を合わせます。
一口でロケットを作ると言っても、飛行に耐えうる素材を作らなければなりません。その為には幾つもの工程を経てやっと辿り着くわけですが、その過程において、人を死に至らしめたり、環境を汚染するような毒素が排出されるものです。
それをゼノは、自らを「闇の科学使い」と名乗り、千空を「光の科学使い」と称しました。
画像出典:『Dr.STONE』Boichi/集英社
『Dr.STONE』は、科学の光の部分だけではなく、闇の部分、負の面をしっかりと描いていますが、この作品の素晴らしさが伺えますね。『進撃の巨人』コラムなので、この辺で紹介は終わりますが、『Dr.STONE』も、神アニメとして取り上げるに相応しい作品なので、いずれ配信する予定なので楽しみにお待ちください(^^)
科学の光と闇、物事の表と裏
日本でも、社会科で習う「公害」というものがありましたが、それも、人類の発展の裏にあった「犠牲」であると言えます。
高度経済成長の当時、初めからそういう犠牲があるとは想定していなかったでしょう。日本経済の発展の為に、工場や開発を進めたことで、公害を引き起こしたり環境問題がありました。現在の「ブラック企業」と言われる会社以上に厳しい労働条件で働いていたり、中には過労死や事故で亡くなった方も多数いるでしょう。それにより今なお苦しんでいる方もいるかと思いますが、今の便利な世の中は、そういった犠牲になった方々のおかげで、成り立っているのです。
「光の千空」「闇のゼノ」と表現したように、科学の良い部分は「光」であり、犠牲になった部分は「闇」であると言えますが、何事にも「表と裏」があります。そのどちらかだけを取り除くことはできず、どちらかだけを得ることもできません。
物事は「表裏一体」であり、どちらも受け入れないと、本当の意味で認めることはできません。「表」だけを得ようとしたり、「裏」を押し付けようとするから、争いになるし、後々破綻してしまうのです。
エレンの行動の「裏」とは?
『進撃の巨人』に話を戻しますが、エレンの行った大量虐殺という「表」は、どう観ても悪だと言えますが、その「裏」にあるエレンの仲間を思う気持ちや、背負った宿命のようなものを考えたら、全てが「悪」とは思えません。「裏」を知らない人にとっては、エレンは「悪の権化」として映るでしょうけど、表と裏どちらも知る仲間にとっては、エレンの犠牲の上に成り立っている平和を享受し、敵だったものとも手を取り、自分の役割を果たそうと動いています。
『進撃の巨人』の裏テーマの一つとして、このような思いも込められているのではないかと思います。
物語の中だけでなく、エレンの行動から、「表」だけでなく、しっかり「裏」とも向き合うことを学び、そのどちらも合わせて全体像を見るように心がけたいものです。
今の世は、多様な価値観で、様々な意見が飛び交っていますが、「表」だけを見るのではなく、少なくとも、自分にとって関わりの深いことに関しては、意識的に「裏」も見るようにして、誰かしらの思惑通りに流されないよう、しっかりと自分を持って生きていきたいですね。
未だ明かされていない謎
ミカサvsアニの結末
訓練兵時代にあった、結末が描かれていないワンシーンである、ミカサvsアニ。
結末は濁されていますが、まぁ、知るだけ野暮ってなものかもしれません。どっちが勝ってたっていいじゃないですか。最後は協力して、人類を救ったのですから。
エレンの涙の謎
第1話、エレンが居眠りをしていて目が覚めた時、涙を流していました。
前半のコラムでは、「ミカサの頭痛」の謎について言及しました。そこで、否定されていた「ミカサのループ説」は、あながちそうでもない、と締めましたが、その後、研究を進めていったら、見えてきたものがあります。
前編コラムでは、「あの時違う選択をしていたら」というミカサの後悔か、エレンとの逢瀬で、二人で逃げたシーンが描かれました。ミカサは頭痛を乗り越えて、エレンとの会話を思い出し、エレンを殺してキスしたわけですが、そのエレンとの逢瀬はifではなかったのではないか、と今では考えています。
やっぱりミカサのループ説?
つまり、ミカサのループ説は正しかった、ということです。
例えるなら、『魔法少女まどか☆マギカ』のような描き方です。主人公は鹿目まどかですが、『まどマギ』で描かれている視点は、時間を巻き戻す能力を持つ、暁美ほむらのものです。幾つもの世界線を巻き戻して、辿り着いた一つの世界線が描かれました。
https://zero-animelife.com/magical-girl-madoka-magica
ただ、『まどマギ』の場合は、暁美ほむらはループの記憶を維持していますが、『進撃の巨人』では、ミカサは記憶を維持していないだろうと思います。あくまで、ループ説だと仮定するからの考察ですが、もし覚えているのなら、ミカサの反応はおかしいです。
それに、エレンとの逢瀬で、涙を流しながら目が覚めたミカサと、子供エレンが居眠りから覚めた時に泣いていたシーンの繋がり、「行ってらっしゃい、エレン」の繋がりを考えると、一つの答えに結びつきました。
それは、
ミカサはエレンを選んだが、それでは辿り着くべき道には繋がらない。エレンを選んだループを経て、「あの時」に時間を巻き戻してやり直した。
という考察です。
だからこそ、様々な経験を「長い夢を見ていた」ような感じが残り、エレン・イェーガーのリスタートが始まったのではないでしょうか。
「ミカサのループ説」は、暁美ほむらとは違い、記憶は引き継げません。そして、暁美ほむらは、魔法少女の武器によって、能力を発動しますが、ミカサはどのように発動したのでしょうか?
おそらく・・・
エレンとのキスが、ループを発動する条件なのかもしれません。そして、最後のキスは、もうループする必要もなく、その能力も使えなくなったと考えます。そして、エレンとの逢瀬ループにいたミカサは、このエレンとのキスに、ループしたのかもしれませんね。
エルディア人が巨人化できるように、始祖ユミルに選ばれたミカサには、ループ能力が与えられていたのかもしれません。ユミルの呪いが解け、巨人化能力は無くなったと共に、ミカサのループ能力も無くなったのだろうと思います。
所詮はこれも、一つの考察にすぎませんが、諌山先生、いかがでしょうか??(笑)
ー追記
ループ説について、語られている動画がありました!編集の川窪さんが、諌山先生とのやりとりやどうするか悩んだ、ということなど、ここでしか聞けないようなことを話されています。
私の考察するループ説の検証にもなるし、公式見解を知ることもできるので、是非チェックしてみてください!
ありがとう『進撃の巨人』
ということで、前後編に渡ってお送りしてきた、『進撃の巨人』のコラムですが、思いの外長くなってしまったので、前後編に分けたものの、後編も書いているうちにまた発見があったりして、この後編もかなり長くなってしまいました(^^;
これまで、様々な衝撃や予想もつかない展開で、楽しませてくれましたが、完結してまで、今回のような考察や感想で楽しませてもらえるなんて、本当にありがたい限りです。
『進撃の巨人』は、考察している方も多いですが、考察内容は大体似てきたりするものです(笑)。ただ、虹見式で述べている考察は、他のサイトでは述べていない内容なのではないかと自負しております。きっと、読み応えのあるコラムになっているのではないでしょうか?
あくまで考察に過ぎないので、合っているかどうかはわかりません。もっと面白い考察があるかもしれないので、「きっとその通りだ!」と思っていただいたり、「いやいや、こういうことでしょ!」という考察をお持ちの方は、ぜひコメントをお待ちしております!
今回のコラムは、あくまで「完結記念」ということで、本当はもっと発信したいことが沢山あります。まだ、アニメは完結していないので、アニメが完結した時には、語り足りない魅力を発信していきたいと思います。
画像出典:『進撃の巨人』諫山創/講談社
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